マッチのレッテルに大正ロマンを求めて

燐票コレクション

燐票年表 4

煙草とマッチ

明治37年(1904) 3月『煙草専売法』が成立。7月より実施。
専売制実施時に売り出された7銘柄のうち、『敷島』『大和』『朝日』『山桜』が口付、 『スター』『チェリー』『リリー』が両切であった。
口付4銘柄は本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日ににほう山桜花』にちなんでいる。
敷島
大和
朝日
山桜

敷島大和心を人問はば朝日ににほう山桜花・・本居宣長

明治40年(1907) 三井物産の資本をバックに直木政之介(直木燐寸社)本多義知(明治社)等が群小工場を合併して資本金100万円の『日本燐寸製造株式会社』を設立。
山形屋1
山形屋2
札幌の旅館山形屋が『御道中弁用、御煙草の火』と銘打った自家用マッチを専用したのが、宣伝広告マッチの嚆矢といわれる。

明治から大正、そして昭和へ

明治41年(1908) マッチラベルの蒐集流行しだす。
明治45年(1912) 7月30日明治天皇崩御。『大正』と改元。
大正1
大正2
大正4年(1915) 大正天皇御大典を記念して奉祝行事広告盛ん。
日本で最初の記念煙草『八千代』(口付20本入り十銭)が売り出された。
八千代
大正5年(1916) 滝川辯三の清燧社と同儀作の良燧社とが合併して資本金200万円の『滝川燐寸株式会』を設立したが、 翌6年さらに鈴木商店の資本を導入して『東洋燐寸株式会社』に改組した。
日本政府は歳入確保の財源として、マッチの専売制化を図ったが、明治時代からマッチ商標に大きな勢力を持つ華僑の反対により、専売制実施は失敗した。
大正9年(1920) 国際労働会議の決議により、黄燐マッチの製造が禁止される。これにより大阪の黄燐マッチ工場は壊滅状態に追い込まれた。
大正14年(1925) 中京燐寸を経営する藤井兄弟が、神戸燐寸社を設立、広告燐寸業を開始。
『宣伝マッチ』なる新語が使われ出した。
大正15年(1926) 12月25日大正天皇崩御。
『昭和』と改元。
昭和2年(1927) スエーデンマッチトラストの進出により、日本燐寸・東洋燐寸・公益社等を合併、日瑞合弁の『大同燐寸株式会社』が成立。
このころからマッチラベルがオフセット印刷となり、電気銅版、活版刷ラベルは終焉をつげる。
マッチラベルの蒐集が大流行。
大同マッチ
HAYASHI
昭和7年(1932) スエーデンマッチトラスト解体。鮎川義介の日産コンツェルンが『大同燐寸株式会社』を吸収合併し『日産農林株式会社』を設立。
昭和15年(1940) 2月 マッチの製造配給統制始まる。
4月 価格形成中央委員会が米・味噌・醤油・砂糖・木炭・マッチなど生活必需品に切符制採用を決める。
6月 六大都市で砂糖・マッチの切符制実施される。

参考文献 〈掲載順不同〉

著者名(敬称略) 書籍名 出版社
加藤 豊 マッチラベル博物館 東方出版
マッチレッテル万華鏡 白石書店
榧野 八束 近代日本のデザイン文化史 フィルムアート社
下島 正夫 マッチラベル 駸々堂ユニコンカラー双書
マッチラベル 燐票博物館 駸々堂
岩井 宏美 絵馬秘史 NHKブックス
小野忠重 版画 岩波新書
横山源之助 日本の下層社会 岩波文庫
犬丸義一校訂 職工事情-中 岩波文庫
古島敏雄 体系日本史叢書-12巻 山川出版社
落合重信 神戸の歴史 通史編 後藤書店
石子順造 キッチュ論 喇嘛舎
チャールズ・パナタイ はじまりコレクション2 (株)フォー・ユ
北原照久 燐寸図案 (株)マガジンハウス
見沼太郎 燐票レトロ寸描 図鑑レトロ集 光芸出版社
燐寸道 日産農林工業(株)
たばこと塩の博物館編著 マッチのラベル (株)クレオ
槌田満文 明治大正風俗語典 角川選書
たばこおもしろ雑学辞典 講談社
三好一 日本のマッチラベル 京都書院アーツコレクション
藤井友樹 ミニチュアール・マッチの世界 京都書院アーツコレクション